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校 旗 と 校 歌 の こ と

恩師(理科)
11回生  

岩  坪  英  亮

 
     
 

〔校旗と房〕

 
成徳高女の校旗
 
 

 現在の校旗は二代目である。初代の校旗には、苦労のエピソードが残っている。創立時代、物資の極端な不足から、旗の周りを飾る『房』をどうしても調達することが出来なかった。そこで、佐世保市立成徳高等女学校にお願いして、それまで成徳の校旗に付いていた校旗の房を取り外し、初代の校旗に取り付けたのである。現在も初代の校旗に、この房が付いているが、本物の錦糸の立派なものである。
  房無しで裸になった『成徳の校旗』はその後そのままになっていたが、校旗を昭和53年9月10日、30周年記念行事の一環として、北星会より新調して寄付した際、一緒に新しい房をつけて、現在も図書館横の飾り棚の中に展示してある。来校されたときに是非ご覧いただきたい。

 
成徳高女の校旗
 
校旗贈呈式
     
校旗贈呈式での新旧校旗
 
 

〔校歌作曲の平井康三郎氏のこと〕

     
 

  校歌制定の歴史も霧の彼方に薄れようとしている。歌詞は初め、一般公募で作ることになっていたが、適当なものが無く、校歌選定委員会で、高橋先生を中心に昭和25年に出来上がった。最初は音楽の先生に作曲を依頼したのであるが、あまり評判が良くなく、どういうつてかは定かではないが、平井康三郎先生に作曲を依頼している。もっとも、当時は平井先生は、ペンネームの〔康三郎〕は使用されてなく、本名の〔保喜〕で書かれているため、あの〔平井康三郎〕先生が作った曲とはご存知ない方も多いと思う。

 
平井康三郎先生
 
 
     
 

  ここで、平井先生の簡単な略歴を紹介しておく。先生は1910年(明治44年)高知県生まれ、1934年、東京芸大バイオリン科を卒業後、1936年、同大学研究科作曲部終了、同年5月第5回日本音楽コンクールに交声曲「不尽山を見て」で作曲部門第1位入賞、以後盛んに作曲活動されている。
 卒業後直ちに母校教官に就任、文部省教科書編纂委員、NHK専属作曲指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音大教授等(平成4年3月退職)を歴任、現在、詩と音楽の全会長、日本音楽作家団体協議会理事、その他の要職についておられる。 作品は器楽、洋楽、邦楽と広範囲にわたり、楽譜、レコード等も多数発売されている。
 1973年、紫綬褒章、1982年勲4等旭日章受章。
 皆さんのご存じの愛唱歌の中には、「平城山」(人恋うは悲しきものと平城山に)、「ゆりかご」(揺り籠に揺れて)、「スキー」(山は白銀)、「とんぼのめがね」、「お江戸日本橋」、「木曽節」、「よさこい」、「山の子供」(山の林で山鳩が)、「九十九里浜」等、多数ある。


 
 

〔平井康三郎先生に会う〕

 
 

 消えつつある応援歌を残そうと、『校歌・応援歌集』を作っていた。これに載せるため、平井康三郎氏の事を色々調べているとき、ふと、長崎新聞を見ると、「『日本歌曲の夕べ』‥平井康三郎氏を迎え26日。」という記事が目に入った。長崎の声楽グループ『アルテ・カントリー』が創立5周年記念の演奏会で、平井康三郎の作品を集めた、歌曲のコンサートを先生をお迎えして、6月26日に長崎で開くというのである。おそらく、先生の事を調べていなかったら見逃していた記事であろう。

 さっそく、アルテ・カントリーの代表者である、佐藤寿子先生に電話を入れる。「実は、私の学校の校歌は平井康三郎先生が、40数年前に作曲なさっています。つきましては、平井康三郎先生に是非ともお会いして、お話などをおうかがいしたいのですが。」かなり興奮した声であったと思う。 初めてのぶしつけな電話に佐藤寿子先生は、快く応待していただき、「コンサートの後、レセプションがありますのでそちらにご出席ください」という招待を受けた。私の喜びを想像していただきたい。北星会にお願いして、「すてきな校歌をありがとうございました」のメッセージを添えた花輪をお贈りし、コンサートに行く準備を始める。『どんな先生だろうか。なにをお聞きすればよいのだろうか。サインはもらえるのだろうか』など、思い悩むことばかり。

 
     
 

 コンサートの日が来た。ずうずうしくも、言葉に甘えて、招待席に座る。幕が開く。 「潮音」「山の子供」「ゆりかご」と続く女声合唱、その後はソロのすばらしい歌曲にうっとりする。最後の「平城山」「九十九里浜」まであっと言うまの2時間であった。最後に、全員合唱で「ゆりかご」を歌い酔う。途中で平井先生は「歌はどこから生まれる?」と題して話をされ、歌を歌われた。話しぶりも歌いぶりも、作られた曲そのままで、 『歌は人間から生まれる』の感を、いまさらながら再認することになる。

 コンサートが終わって、いよいよレセプションが始まった。日頃気の弱い(?)私も、この時だけは厚かましくならぎるをえない。平井先生の隣の席を確保し、乾杯の前に、校歌の楽譜をお見せして色紙のサインをお願いする。 「何がいいですかね」「何でも結構です」「では、ゆりかごにしますか」「ありがとうございます」 優しい字である。ゆりかご の歌詞と、初めの2小節の楽譜を書いていただく。最後に岩坪英亮様へと書かれてぴっくりした。
本当は北高の生徒向けに書いていただくつもりで色紙を出し、うかつにも、 「生徒向けにお願いします」と言うことを忘れていたのだ。しかし、幸いにも、予備の色紙をもう一校持参していた。先生も何かを察されたのか、「もう一枚色紙はありますか」 と言っていただく。会場では、乾杯の準備もでき、平井先生の方を注目している。少し焦ったが、今度ははっきり「生徒の励みになるような言葉をお願い致します」と言う。しばらく考えて


 
  平井先生の色紙

と、すばらしい言葉をいただく。

書き終われるやいなや、乾杯=@ビールをいただきながら、なおもそばを離れず校歌作曲時のお話をうかがう。

「どのような『つて』で作曲をお願いしたのでしょうか」
「当時の日記をめくってみなければ分からないが、当時、教科書編纂委員をしていた関係で、あちらこちらから、作曲を依頼されています。九州管内でも8校程度は書いてい るのではないでしょうか」
「珍しく、非常に酒落た、2部合唱になっていますが、どうしてですか」

 
 

「これも、はっきりとした記憶はないが、頼まれて、2部合唱にすることはあります。それも、最後の4小節だけだというものが多い。ただ、非常に優秀な学校で、充分歌えると思ったら2部合唱にすることがあります。楽譜から見ると、おそらく、非常に優秀な学校だと思ったのではないでしょうかね」と嬉しいことを言っていただく。 (北高生よ、この歌だけは、きちんと2部合唱で、誇りをもって高らかに歌おうではないか。すばらしいハーモニーですぞ)

 
 

 一人で先生を独占して、もう、充分顰蹙をかったと思うころ、アトラクションが始まる。何しろ、長崎のトップの音楽家の集まりである。ピアノ伴奏も超一流なら、次々と歌う人も、テナー、バリトン、ソプラノと、うっとりするメロデーが出て来る。酒を飲みながら、こんなすばらしい歌を聴くことは、日頃のカラオケにうんざりして(させて?) いる私にとって初めての経験である。宴は進む。

 ほとんど半狂乱としか言いようのない私の興奮ぶりが、とんでもないことをしでかしてしまった。佐藤寿子先生が、「岩坪さん、校歌の楽譜はもって来ていますか」と尋ねられたので、「はい、先生に差し上げるつもりでもって来ました」と、ピアノ伴奏付きの楽譜を差し出したところ、「一緒に歌いませんか」と言っていただいたのである。「ワー、本当ですか、ありがとうございます。私が下を歌わせていただきます」と言ってしまったのである。佐藤先生は芸大声楽科の大学院卒、方やど素人である。あたかも、巨人軍で、私がキャッチャーをやるようなものである。しかも、日本を代表する大作曲家の面前である。

 興奮とか酒乱とかは恐ろしいもので、いつしか佐藤先生とピアノの前に立っていたのである。もちろん先生は初見、しかし、ピアノ伴奏が始まって歌い出してみると、我ながらすばらしいハーモニーが醸し出きれていたのである。こんなに気持ちよく歌えたのは、この世に生を受けてから初めての経験であった。(今考えると冷や汗が出るが)
  紫匂ふ 烏帽子岳
明けゆく朝 空澄みて
潮の音遠く 響きては
八幡台に 雲ぞわく
青嵐に立つ 北高校
  校歌・応援歌集
(1992年(平成4年)8月8日発行「北星会報」第19号より転載)
        ↑ 岩坪先生が、1992年(平成4年)に作られた歌集

 
 
 
     
  参考までに、平井康三郎先生のプロフィール・作品等を掲載したHP仁淀川日記をご紹介します。  
     
   
     
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